習い方の五カ条

習い方の五カ条

 

■ 第一ヶ条 教えられれば嬉しがること

 教える者にとって、折角教えてもブスッとして何の反応も無い者に出会うと、誠に腹の立つものである。

 

 師匠は苦労して会得した事を惜しげもなく伝えようとしているのに、弟子は鼻糞をほじくり、上の空で聞いているものなどにおいては、師の心中怒髪天を衝く如くであると知るべしである。

 

また反対に、一心不乱、懸命な眼差しを見ると、師はどこまでも教えてやりたいとという気になるものである。

 

ともかく兄弟子、先生に習えば、たとえ痛くとも嬉しい顔をしなさい。

 

そのうちに、してみせる様な事でも、やがて両者の間に本当に心が通じ、以心伝心の片鱗を知るであろう。

 

嬉しさや喜びの表現はなにも媚びへつらうのではない。

 

素直に習う事の楽しさ、教えの有り難さが表情や態度に、自然に表れてくれば理想である。

 

両者の間に太く強いパイプが通ずれば、多くのものが伝わるのである。

 

人間が人間に伝えるという事は、技が別個に存在するのではなく、人間がその技を保持しているのだという事を忘れてはならない。

 

習うという事は、如何にしてまずその技の保持者と太く強いパイプを通じるかという事に留意することが先決である。

 

ここに人間性を見る深く鋭い洞察力が必要となるのである。

 

結局人間を知らねば技も知ることができぬという事になる。ともかく教えるものはその確かな反応を期待するのであるから、まずそれに応えることを、嬉しい顔をせよという事にようやくしたのである。

 

教える者にとっては好ましい人にはやはり教えたい気が起る。

 

習う者は、この教えたい気を起す事にもっと注意を払う必要がある。指導者は、えこひいきは良くないことではあるが人間である以上多かれ少なかれ好みという事はあるのであり、習う者は、早く師の気風を知り、良い弟子となり師に教える気を起さす事に努力する必要がある。

 

これはつまり、換言すれば、礼を尽すということである。しかし礼とは、昨今、謝礼、月謝という事を指し、金品によりそれを表すのであるが、やはりまずこの教えに対し、感謝の気持ちを素直にその場で表す事は大切である。

 

いつの世にも、ものを習う事には、精神的な礼が大切なのである。金品だけの礼では、本当に心から教える気が起るはずがない事を知らねばならない。

 

■ 第二ケ条 すぐやると云う事

習ったら、教えてくれた人の前で直ちにやってみる事である。そうすると、師はその素直な実行をまず喜ぶであろう。

 

そうしてそれを手直しして、適当なヒントやアドバイスをして、正しく伝わる事に努力してくれるに違いない。

 

けれど、これがまたなかなか出来ぬようである。なぜか知らぬが恥らってすぐやらぬ者、また他の流ではこうでしたとか、自分はこう習ったとか何とか、グチャグチャと文句や能書を云う輩がいる。

 

そんな者は決まって未熟ものである。かなりの熟練者の場合は、かえって熱心に初歩の事でもやるものである。

 

また、師は時と場合、対象者の力量によって違った指導をする事も多い。

 

事によっては、今日教える事は過去の事と異なる場合もある。

 

これは師なりの考えがあっての事であり、弟子はまず今の教えを実行・実践する事に務めねばならない。

 

師の教えを信頼して、師の前ですぐ実行することにより、具体的にその技の良否を師が修正してくれるのである。

経験の有る者は、それなりに、自己の評価のみでなく、他の者の評価指導をしている師の教授内容をも注意して聞くべきである。初心者は欠点が判別しやすく、見方により参考になる事が多い。

しかし、師は初心者に解り易くする為に、指導や説明等は極端な表現や便宜的な方法を取る場合があるので、上級者はそれなりに修正して理解体得しなければならない。

師の手本をよく見て説明を聞くことはむろんであるが、古武道の技はモーションなので、なかなか説明が難しい。

ビデオテープ等も使用したいが、それとて多かれ少なかれ、動きの流れやその理論、またそれを裏打ちする精神的なものを説く事は至難である。

やはりまずやってみて疑問や不明瞭な点は先輩や師範に尋ねるべきであるが、しかし自分自身で真実を探り、見出す能力を養う事はもっと大切である。

師は弟子の力量に応じて教えるので、時には教えてくれぬ事もある。何故教えてくれぬかを考えてみる必要がある。時には教えないという「教え」もある事を知っておくことは指導者となっては特に、大切である。

ともかく自分の持つ最大の能力を動員してやってみる事が大切である。そして評価を謙虚に聞き、反省してまた繰り返しやる。

反復練習と師の手直し、これを続けることにより、粗方の技が次第に体得されるのである。この段階には先輩や師範が非常に重要な役割を負うのである。

この段階を継続する意志の力があるか否かによって、その人の価値も将来も決定すると云える。一つ事を継続する事により、数多くの事が発見され、より興味も湧くのである。人間は飽きるという性質があるが、また、目標に到達する為に自己を律する意志の力を持っているのである。

■ 第三条 目的を持って工夫するということ

師範・先輩にひと通り習うと、これからが本当の稽古と云うものに入る。しかしこの段階に到達する迄に、通り一遍習ったのみでこれで満足してしまうものが非常に多い。

二~三年でやった気になって止めるものが多い。本当の稽古も知らず、結局道を知らずに終わるのである。いわゆる生兵法というものである。

この病気のような慢心は一番警戒しなければならない。習うという事も、この三ケ条に到って、本物になるか否かの岐路と知らねばならない。

それは目標を定め、目的を持ち、その到達の為に工夫に工夫を重ねる事をするか否かの事である。

技の習得の方法や見方、考え方を反省し、探求、研究を続ける事は容易な事ではないが、ここまで来た道はもう不退転の登山であり、覚悟をきめるべしである。

研鑽の日々は生涯続く事を自覚せねばならない。近頃は何でもインスタントが流行して、簡単にものが出来ると思う風潮があって、自分が苦労して、時間を掛けて、つかみ取るといった意欲に欠ける為になかなか物事が習得できない。

だからいつまでたっても自己の発展も深まりも、広がりもないのである。また少しぐらい工夫しても、目覚しい進歩や効果が直ちにある訳でもない。

多くの場合、一日の稽古は無駄な努力である場合が多い。しかしこの目に見えぬ努力の蓄積が、ある日突然に技に表れて自覚される事がある。努力の甲斐ありとうれしい限りである。

しかしまた続けて行く間に、個々の技や、心の問題や、道そのものにも、不明な点や疑問が出て来て、時には工夫がゆきづまって何もかも空しく見える事がある。

しかしこの解決にはただひたすら工夫の一言、精進の一語に尽きる。反省・工夫・精進これしかないのである。

工夫と一口に言っても、個々の性格や能力によってそのやり方は異なる。けれど、これを時には師や先輩に見てもらう事、また聞いてもらう事が必要である。

とりわけ孤独になりがちなこの段階では、先に行く先輩達も自分と同じく苦しみ、工夫を凝らして進んでいる事を知らねばならない。

他の人の意見を聞く事も工夫のうちである。判らぬところは先輩に聞く事である。反省し、工夫と精進のないところに進歩はないのである。

この工夫の大事を、私の師中山先生が岡大の部誌に「木刀の作り方」のところで、技術の習得は観察、判断、手順にあると、木刀の作り方を例に、ものを見る確かな目を鍛える事が基礎であり、目的を達する為にその工夫が如何に大切であるかと云う事を述べておられる。これは非常に参考になることである。

■ 第四ケ条 他と比べると云う事

工夫を重ねている間に、自信も出来るがまた行きづまる事もある。

自己の工夫・精進にも限界があり、師の指導にも限界がある。

ここで初めて、外へ目をやることが必要になる。昔であれば、武者修行、他流試合の段階である。師の膝元を離れ、自分の力を試し、より腕を磨く事である。

現在においては、他流の研究をする事であろう。今まで体得した事を他と比較することによって、もっと進歩しようという事である。

井の中の蛙にならぬ様、外へ目を向ける事である。世界は広く、何処に名人、上手がいるかも知れない。同好の志を求め、教えを請う事は必要である。

場合によっては、新たに師を求めねばならぬ事もある。その段階に達しておれば元の師は心よくそれを了解するであろう。

しかし多くの場合は、いまだその域に達さぬうちに他流に首を突っ込むのである。

これは誠に困るのである。

本人は全く困らぬのではあるが、新師匠にとっても、旧師匠にとっても、困るのである。

本当は本人にとっては労多くして益なく、害あり、本人自身があとで一番困るのである。

聴風館にもよく他流の者が入門を願って来る事がある。もしこの者がそれなりの力量があれば、私も出来うる限り教えたいと思う。が、まだ未熟な上、次から次へと道場、先生を変えている様な者は論外である。

参考に他流をのぞくと云う事は大変失礼である事を知るべきでありもし他流を研究するならば他流を尊重し、敬意を持って対さねばならない。

必要とあらば師弟の礼をとり、入門して、本来の師匠と同じく心より敬意を持ち。生涯の師として遇しなければならぬのは当然である。

しかるに軽々しく師や流儀を変えるのはつつしむべきである。現実にはそう沢山の道を修得する事は不可能である。

しかし、他の人や他流との比較・検討は大切であり、機会をとらえて、その参考にすべきである。

自己の見識が出来ておれば、すぐ他流のそのままをまねるような事もない。

自己の進歩に役立つ力量の目で見るからである。

この比べることは何も武道だけでなく、他のジャンルでも参考となることは、何でも吸収するのである。

手仕事であっても、人間の事でなくても、犬や魚の事でも、あらゆる現象すべてを参考にすると云うことである。

案外別の事に教えられる事があるものである。

私は古武道の他に尺八や造園を習っているが、どれも互いに相関して、ヒントとなり合ってそれぞれの進歩に役立っている。

一芸は多芸に通じ、また一芸に秀でるものは多芸を解すると云う事も、この習い方のコツを知っているからである。

ものを見る眼の普遍的な共通の見方を心得るからである。自分は武道をやるからと云って、他は何も見ないと云う事は間違っている。

あらゆる事を参考にして、素養を広げなければならない。

あらゆる事に興味を持つ事も大切である。底辺の広いもの程、高さを極める事を知らねばならない。

■ 第五ヶ条 教えると云う事

習い方に教えると云う事は不思議に思うかも知れないが、習う事は教えると云う事によって完成するのである。

教えながら方法や工夫が再度吟味され、経験の反省や整理や記憶の確認がされ、これによって修得した事が完成されるのである。

また、指導する事により創意工夫に磨きがかかり、独自のものが出来るのである。私は習う以上は教えることが出来る様になる事を目標にせよと云う。

それは結局習うことは教える段階を経てやっと完全になるからである。

最後に、人間は百五十万年前に二足歩行をする様になり、手に棒切れを持ったと云われている。

道具が出現して以来、人から人へと使い方が伝えられ、今日の文化がある。

これも技の伝承があればこそである。

教える事、それを習う事がなされたからである。この偉大さを認識しなければならない。

もう故人になったが、フランスの文化相・アンドレ・モロー氏が「世界のすべての国々は物質文化に毒されてしまったが、日本にはまだ精神文化が残っている」と云って日本の諸々の「道」を高く評価している。

しかし、その日本をも段々物質文化に押されて、武道も見せかけのショーとなり、商売とされ、軽薄なインスタント志向者の為のものとなりつつある。

今、我々がしっかり本物を求め、技に心にじっくりと探索する力を注ぐことをしなければ、日本の武道のみならず精神文化は全て、永遠に葬り去られてしまうだろう。

そのため、我々同志は、人数は少なくとも、その力を結集して、真実のものを修得して、後世に伝えなければならない。

私はそれを私の使命としている事を知ってもらいたい。

五十四年秋記す © 小野真人

 

RETURN TOP

最近のコメント

メンバーサイト登録
会員登録画面を開くPWは管理者にご照会ください。竹内流を修行するうえで必要と思われる方にはお応えします。

アーカイブ

カテゴリー

記事の編集ページから「おすすめ記事」を複数選択してください。