流儀の創始と小具足腰之廻
竹内中務大夫久盛は、源氏の家系であるため、家伝の剣法を継承していましたが、久米郡垪和郷の三宮山中に籠って武術の修行を重ねている際、愛宕神の化身である異形の人物(白髪の山伏)から相手を瞬時に膝下に組敷く極意を授かったと伝えられています。この武術極意の天授の時期は、天文元年(1532)六月二十四日。このとき久盛は数え年で30歳でした。
その様子は、『竹内家系書古語伝』によると、「(客)木刀を取て、長きに益無しと、之を二つに折切て小刀となし(注)、これを携えて曰く、之を帯せば小具足也。今、小刀を小具足と云う事蓋し是より言ふのみ。(略)以来、受る所の五件を以て忰家の捕手と称す。小具足組討以て腰之廻と号す。其の業妙域に至る」とあります。
(注)ちなみに『系書古語伝』(江戸後期の編纂と考えられる)よりも時代的に古い『作陽史』(元禄年間に津山藩森家臣の長尾勝明が編纂)には「木刀を二つに折切り」の代わりに「(客)樒柯(しきみの枝)をかり木刀となす。長さ一尺二寸」と記されています。
竹内流において「腰之廻二十五カ条」は「捕手五件」と共に、竹内流の原点であると共に表芸となります。「捕手五件」は武器を持つ敵を徒手で制する術であり、「腰之廻」は小刀(脇差)又は腰刀を持ちいて、相手を制する技法といえますが、この「腰之廻二十五ケ条」の形が流儀の武術全般の骨格を形成しているため、この小具足腰之廻の習得なくしては、竹内流を学んだとは云えないほど重要なものになります。
流祖竹内久盛が太刀を両手で扱う剣術を基に、小太刀を片手で扱う小具足術を学んだことから、空いた片手で、打つ、つかむ、極めるといった手技が発達したのです。これが躰術とあいまって羽手(柔術)として体系付けられる事になりました。こうしたことから、「小具足腰之廻之術」が柔の源となったといわれています。
このように、柔の源になり、柔道の源流となる一方で、竹内流は小具足腰之廻の型を変わることなく現代まで伝承してきており、相手が得物を持った場合の攻防のありさまを往時のままに伝えています。この古伝の形を稽古することにより475年の歳月を超えて現在においても流儀の真髄に触れることができるのです。
小具足とは。腰之廻とは。
小具足腰之廻は、「これ(小太刀)を帯せば小具足なり」といわれるように、小刀を帯び脇差術を身につければ軽易な鎧を着用しているぐらいの武備であるという意味の武術です。
戦国期における「小具足」という言葉は、「具足」に対するものであり、小具足姿とは甲冑(袖付の鎧と兜)を着ける前の段階の軽装であり、この軽武装が、戦国末から桃山時代においては武士の平時における普段の服装の一つとなっていました。竹内久勝が武者修行と号して諸国を巡った時も、桃太郎のような小具足姿であったといわれています。
戦場での「鎧組討(具足組討)」に対して、この平時の軽武装での闘いが「小具足姿での組討ち」すなわち「小具足組討」という言葉を生み、これが略されて「小具足」と称されるようになったといわれています。
「腰之廻」とは、文字通り腰の廻りに帯びるもの(腰のもの)、すなわち小刀(脇差)や腰刀を使用して相手をとりひしぐ術という意味になります。
竹内久盛が愛宕の化身である山伏から授かった言葉「咫尺(しせき)の間の不虞(ふぐ)の会(接近した間合いでの不意の立会い)にも能く万天(天下四方)の雄を撃伏す。これを捕手腰廻りと名づけ、操る所のもの甚だ約(簡約)にして、用を為すもの甚だ広し。我これを汝に付けん」これが竹内流小具足組討の真髄を要約した言葉になります。
●表型二十五ヶ条
1.忽離之事、2.清見之事、3.脇差鞘抜之事、4.鴨入首之事、5.脇指落手之事
6.脇差横刀之事、7.脇差入違之事、8.柄砕之事、9.大殺之事、10.倒切之事、11.右之手取之事
12.大乱之事、13.小乱之事、14.四手刀之事
15.矛縛之事、16.脇指心持之事、17.奏者取之事
18.鐺返之事、19.通大事之事 20.刀落手之事、
21.大殺無外之事、22.脇指敵胸取之事、23.大小一籠之事、24.両手取之事、25.人質請取様之事
●裏型五十四ヶ条
●小裏十五ヶ条
1.忽離之事、4.鴨入首之事、5.脇指落手之事、6.脇差横刀之事、7,柄砕之事、8大殺之事、11.右之手取之事
大乱之事、四手刀之事、矛縛之事、奏者取之事、鐺返之事、刀落手之事、両手取之事、人質請取様之事
●極意八ヶ条
大脇指之事、小脇指之事、仕掛留之事、抜留之事、玄蕃留之事、戸入之事、行身之事、監物留之事、中村留之事
●裏極意五ヶ条
清見之事、鴨入首之事、千鳥之事、附移之事、左座之事
他
各流に受け継がれた小具足組討
日本最古の武芸書といわれる『本朝武芸小伝』(巻之九、1714年)には「小具足、捕縛はその伝承あること久し、もっぱら小具足をもって世に鳴るものは竹内なり、今これを腰之廻という」とのくだりがあります。
その背景としては、竹内久盛、久勝、久吉が広く門弟を取り、教えを授けた門弟が六千人以上にのぼり、そのうち、一流を立てた者も多かったことがあげられます。
さらに、これらの各流に受け継がれた小具足組討から新たな技法が生まれてきます。剣術が素肌剣法へと大きく変わっていったのと同じように、合戦の途絶えた江戸期において、小具足組討(捕手、腰之廻)の技法は、徒手本位の格技としての柔術へと発展しました。
竹内流から分かれ出た流派は、下記の他にも多数あります(「流儀の系譜」の「竹内流の支流・分流」を参照)。
扱心流(犬上郡兵衛永保、竹内久盛の門人)
難波一甫流(竹内久勝の門人・難波一甫斎久永)
荒木流(竹内久吉の門人・荒木無人斎秀綱)
曲淵流(久吉門人・曲淵隼人)
高木流(久吉門人・高木右馬助重貞)
竹内三統流(久吉門人・鳥取為人)
双水執流(久吉門人・二上半之丞正聴)
力信流(久吉門人・宮部嵯峨入道家光)
竹之内判官流(西沢久三郎)
風伝流(中山新左衛門)
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