初心心得
入門
入門に関する手続きは各道場の師範に詳細をおうかがいください。
ちなみに東京・新風館では、「見学・体験」を経て「入会」の手続きを行い、半年から1年程度の稽古を積んだ後に、流祖祭(旧暦6月24日)の日をもって「入門」、すなわち竹内流の「門人」となります。その際、稽古の進み具合に応じて昇級の免状を授かるほか、門人帳に氏名を墨書し、木札を道場に掲げます。
入門者心得之事
竹内流二代目久勝と三代久吉は、竹内流の教えを求めて訪れる何千という門弟の出生、性格、生活条件、また修行を決意した動機も千差万別であったうえ、武士・農民・町人という階級間の対立や差別といった問題を回避するため、竹内流の流儀の掟を定めるだけでなく、ひとりひとりに入門誓書を差し入れさせました。
こうして門弟間同士の礼儀と信義を重くし、師弟の秩序と人間関係についての規範をつくり、それを忠実に守らせたのです。竹内流の掟の原点は、三徳を血となし五常の徳を肉としました。
竹内流を学び修行する門人は、いかに財産があり、社会的地位があろうと、それらに全く左右されない一個の人間であり、人間対人間という平等主義を貫く「掟」が定められたのです。
入門者の心得之事
写真は聴風館の入門者心得之事です
一、師範兄弟子の教えに従う事
一、上下和し道場の興隆と武道の発展に尽す事
一、自流他流によらず一切批判論評せぬ事
一、他流仕合は固く禁止の事、伝授の技を猥りに他人に見せ私闘等に用いぬ事
一、稽古は力を尽し余念を惜しまず継続し、休む場合は届け出る事
一、己の油断から稽古中に怪我等でたとえ一命を失うと雖も一切意義申さぬ事
一、道場の清掃火之用心武具の手入れ怠らぬ事
一、稽古着は柔道着に袴を着用し、清潔にする事
一、稽古出会いの砌は兄弟子より帳付の順に順を乱さず整列し神前に礼拝の事
一、真剣の使用は師範の許可を得る事、使用と保管には細心の注意を払う事
一、授かった免状は大切にし額に入れて適当な場所に掲げる事
一、武道修行は生涯の道と自覚を持ち、常に門人の誇りを失う間敷事
以 上
スポーツ保険
上記、入門者心得之事の第六条は、それぐらいの覚悟で真剣に稽古に臨みなさいという教えであり、指導者は常に安全に稽古をすすめるよう心掛けており、稽古中に集中力が欠けたり、気が緩んで怪我することがないように、楽しく、真剣に稽古をすすめるように配慮しています。 ただし、万が一の怪我の場合に備えて、新風館では、入会または入門して稽古される方には自動的に「スポーツ安全保険」に加入頂いています。
道着
上記、入門者心得之事の第八条の道着については、基本的には白の柔道着を着用します(白であれば、空手着、剣道着、合気道着などでも結構です。薄手の空手着は夏場や携帯には便利です)。
道着の畳み方
体験稽古に参加される場合は運動できる服装、たとえばジャージやお手持ちの稽古着(紺・黒色など色付き道着)などで結構です。
演武を行うときには、白の道着に紺または黒の袴を着用しますが、稽古時は省略してもかまいません。
なお、竹内流では袴の紐は「十文字」に結ぶのが通常です。また、居合抜刀術を稽古するために「各帯」を締めたり、高段者や師範は演武で紋付袴を着用する場合もあるほか、また、躰術などを稽古する場合、動作を便利にするために「股立ち(ももだち)を取る」(袴の股立ちをつまみあげて、袴(はかま)の紐(ひも)にはさむ)場合もありますので、道着の着け方やたたみ方などの研究もしてください。
礼
上記、入門者心得之事の第九条にもあえうように、武道は常に礼に始まり、礼に終わります。
師範や兄弟子にたいして、また門人の間でも長幼の礼を守ります。また、その逆もしかりで、年下であってもその道の先輩には礼を尽くし、門人同士が互いに相手を尊重する必要があります。
道場に入退場する際は、神棚に対して一礼(神棚がなくても)します。稽古始めには、略礼により師弟の礼を行い、門人同士の稽古を始める場合や稽古を終えるにも稽古相手との相互の礼を行います。稽古の終りには、稽古相手への相互の礼、師弟の礼を行います。
略礼とは「合掌、一拝(礼)、二拍手、一拝(礼)」であり、神前礼拝「(正座にて)二拝二拍手一拝を行う」を簡略化したものです。礼を行う際には、左手、右手の順に手を着き、手を上げる場合は、右手、左手の準ンに上げます(進左退右)。顔は伏せても眼を伏せず周囲を見る「蛙の目付」といった口伝もあります。
愛宕神信仰
竹内流の道場には神棚があり、流儀の守護神である愛宕神を祀っています(公共施設の道場においては、神棚がない場合があります)。(下の左の写真は、宗家愛宕神の祠。右は聴風館の神棚です)。愛宕神社は京都の本社のほかに全国にありますが、6月23日~24日は千日詣りの日で、この日にお参りすれば千日分の御利益があるといわれています。
流祖竹内久盛が神伝を授かった「白髪の山伏」は愛宕神の化身であるとされており、竹内流古武道に伝わっている呪法の一つに次のような真言があります。
「愛宕山大権現、御摩利支天王、秋葉三尺坊、十二天狗、八天狗、アビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカ」。
古来、愛宕神は、火の神(迦具土神)として信仰され、防火・除災の神として崇められました。水の便の悪い山間地では、火災が一番恐ろしい災害であったこともあり、垪和郷を含む吉備高原の各地では愛宕信仰が盛んであったといわれています。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、つねに日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があったといわれます。また、密教の曼陀羅に描かれた摩利支天が金剛杵、弓、箭などの武器を手にしていることからの連想ともいわれます。竹内久盛は、この愛宕神を武の神として崇拝し、さらに、摩利支天を深く信仰していました。摩利支天はインドのヒンドゥ教の女神で、日月の光や陽炎が神格化されたもので、特に西日本においては武神として地侍層に広く崇められるようになりました。
秋葉三尺坊とは、宝亀9年(779年)生まれ、名を周国(かねくに)といい、幼少で出家。新潟県栃尾市蔵王堂の院坊に住し、飯綱権現を信仰する修験道者であった。通称、小柄であったことから三尺坊と呼ばれた。
信濃国戸隠山の人で、不動三昧の法を修行し、飛行神通自在となり、秋葉山(静岡県春日町)に降り立ったといわれる天狗の一人です。飯綱権現も秋葉権現も白狐に乗った剣と索(縄)を持つ烏天狗の形で表されている。竹内流の神伝に短剣術と捕縄術が含まれてるのはそのためか。
左は愛宕火伏面、右は羽黒天狗面です(嵯峨面)。
これらの愛宕信仰、真利支天崇拝、天狗信仰は、すべて修験道の世界と重なり合います。山伏たちは、教養人として尊敬され、農耕儀礼にも多く関与し、その奉ずる信仰が垪和郷を含む吉備高原各地に根付いたといわれています。
また久盛は修験道的な信仰とは別に、日蓮宗への熱心な信仰心もあったといわれています。
姿勢
正しい姿勢をつくりましょう。まず「あごをひき」、「後頭部を伸ばし」、「胸をはり」、「背中と腰を伸ばし」、「腹を凹ませ肋骨をしめ」、「尻を気持ち締め」、「ひざをすこし曲げて緩め」、「腰の上に背骨がまっすぐ伸びる」ようにします。そして、かかとと尻の間に紙一枚の隙間ができるくらいに太ももをやや張った状態にします。呼吸は自然呼吸ですが、先ず下腹を凹ましてゆっくり長く息を吐く事からはじめましょう。息を吐ききれば自然と吸気が入り込んで下腹に落ちます。これをゆっくり繰り返します。立った場合も座った場合もおなじです。
「疲れた時」、「落ち込んだ時」、「憂鬱な時」、「元気が出ない時」そんなときは、背筋を伸ばし、胸を張り、腹の底から深く呼吸し、顔を上げて、からだを動かしていれば、落ち込んでいられなくなる。うつ状態も変えることも出来る。身体が生き生きとして力強く、はつらつとした状態になれば、自然と精神状態も内面からそうなっていくからです。
構え
「構え」は武道で最も大切な要素のひとつです。体構えや心構えは、心身が常に無理なく自在に変えられる構えであることが重要です。
不意の攻撃に対しても、防御や反撃の体勢が取りやすい姿勢をとるとが出来るからです。 それには、肩を張らず、ひざや腰の関節をかためず、ゆとりのある体勢をとる心持ちで立つあるいは座すことが必要です。素手や武器を持っても同様である。 竹内流では相手に対峙するさい「平構え」(いわゆる自然正体)をとることが多い。立って座しても両手を両股の付け根に添え、軽く置くのである。つまり両手を前にかざして構えることはしない。しかし、心の中では構えているのである。 この自然正体から、相手の構えや攻撃等に応じて、左右の半身の構えになったり、中腰の構えになったり、各種の構えに変化しても、不意の攻撃に対して、防御や反撃の体勢が取りやすい姿勢をとるという心持ちで構えればよい。 これは打拳や棒術、剣術の基本を行う際に各自、常に自分の構えをその観点から確認してみるとよい。 たとえば、打拳の基本を行うさいに、「手刀受」や「払手」で相手の拳を避けた時に左右の足、左右の手はすぐに次の反撃ができるか、単なる受けとなって自分の体勢が崩されていないかといったポイントから自分の構えを見直すのである。 棒術でも剣術でも、相手の攻撃を受けたときの構え、あるいは相手に攻撃を加えた時の姿勢が、次の体勢をとる場合にとり易いかどうかである。もちろん動きの中で動的なバランスをとるのであるが、自分の動きをコマ送りにして客観視するとわかりやすいのではないでしょうか。
居合腰 残心の気構えで両膝をわずかにまげ、腰をおとした姿勢を居合腰と言う。 居合剣術を立会いで行う場合切り下ろし、血振り、納刀後などはこの居合腰となる。 この居合腰について説明する場合に、こういうたとえ話しがあるといわれると解りやすい。まず、侍が雨傘をさして歩く姿、または陣笠をかぶって歩く姿を想像して頂きたい。 居合腰ができている侍を塀越しに見たとすると、傘だけがスーっと水平移動しているように見える一方、居合腰が十分でない侍を同じようにみると、傘がピョコピョコはねるように見えるというものである。
気合い
気合一閃 竹内流の気合声は「ヤー(矢)」「ホッ(保)」「エイ(曳)」の3種類です。
「ヤー(矢)」(または「イヤー(威矢)」)は、相手に打懸かる時、矢を射掛けるように発する声で、敵を威嚇し、自分自信に力と気力を充満させるために発する気合で「矢声」といいます。
「ホッ(保)」は、敵の攻撃に合わせ、変化する時に「矢声」で得た全身の充気を保ちながら、呼吸を整えるために発します。間拍子に合わせて、力を保つように、動きに合わせて強弱大小の声を発します。
「エィ(曳)」は、残心の声です。相手を降伏させる場合に「参ったか降参しろ」という気迫をこめた気合と、威力のある止めで制圧するのですが、そのまま相手を静止させるように(曳くような)残気で、残心をとることになります。
この「気合」は「構え」や「姿勢」と同じく武道ではもっとも大切な基本です。敵に対したときに、敵を威嚇すると同時に自分の心と身体に勇気をみなぎらせる効果があるからです。 不意の敵の攻撃に対して、臆すると声さえ出ないで体が萎縮してしまう場合がありますが、気合を発することによって、こうしたことを防ぐこともできるのです。
竹内流では、どんなに強そうな敵に対しても、また多くの人前でも鋭い大きな気合が出るように日頃より鍛錬します。大声をだすことは、横隔膜など呼吸器系の器官を鍛えることにもなるため健康にもたいへんよい効果がうまれます。
入門当初は、大声を出すと体が硬直して、体が動かし難いという方もいるかとおもいますが、徐々に、「気合」をだしても瞬時に緊張と緩和を切り替えられるようになり、声を出しても体の筋肉をリラックスさせたままでいられるようになります。
調息
文字通り「息を調える」ということであるが、竹内流の調息はいたってシンプルです。「深呼吸 深く吸うには まずはききる」です。
息が上がるような運動をしたとします(例えば、新風館では投技に必要な足腰を鍛錬するためにジャンピング・スクワットを行う場合があります)。 肩で息をついているような状態のときに、次のような手順で呼吸を行うと、呼吸と脈拍が早く落ち着くはずです。
(1)できるだけ大きくおなかを膨らませ深く息を吸い、今度は、可能な限り息をはきます(腹を凹ませ、横隔膜を上げ、肺の中の空気を可能な限り搾り出します)。
(2)息を搾り切ると自然に、横隔膜が落ち、お腹のへこみが無くなり、浪が返すように呼気が勢いよく流れ落ちてくるので、入った空気をストンと下腹に落としつつ、胸腔を広げて大きく深く息を吸い込む。
(3) (1)(2)をもう一度繰り返す。
これだけです。
シンプルですが、(1)~(2)で老廃物を含んだ空気を搾り出して、新鮮な空気を下腹にとり込み(外呼吸)、(3)で下腹に落とした新鮮な空気を腹圧の助けもかりて加圧して、全身の毛細血管まで空気を送り込む(内呼吸)という理屈です。
長寿の秘訣
竹内流の歴代の師範には長寿の方が多い。その秘訣は難行・苦行のベースにあった断食の延長上にある粗食・節食がポイントと思われます。
近年アンチエイジングの研究が盛んですが、その研究の成果として言われている老化を遅らせるための学説は、『生物の最大の使命は生き残ること。何万年も飢えとの戦いをしてきた人間もその例外ではない。カロリーや脂質の摂取量が制限されるという「カロリー制限」が人間のDNAの中にある「長寿遺伝子(サーチュイン(Sirtuin)遺伝子)」のスイッチをONにし「ミトコンドリア」や「免疫細胞」を活性化させる』というもの。 また、りんごの皮、落花生の渋皮、葡萄の皮、赤ワインに多く含まれる抗酸化物質(レスベラトロール、Resveratrol)を多く摂取すると体の酸化が防げるというものです。
古人の叡智の中に、長寿の秘訣として、自然菜食を中心とした少食、咀嚼、柔軟運動などが言い伝えられています、これらは、決して新しいものではなく、古から伝えられた日常の中の秘伝です。長寿遺伝子の存在すらわからない時代、サプリメント等を活用することのできない時代に人間の体の中に眠っているものを引き出していたということです。
こうした竹内流に底流する長寿・自然菜食の発想を個人的に研究している門人(竹内家の末裔である垪和郷(西川)草地家の方)もおります。
野稽古
竹内流で「野稽古をする」という教えがありますが、これは自然環境の変化などに応じた稽古をするという意味もこめられているのではないかと思われます。 相伝家先代の竹内藤十郎久博先生が生前、小野館長に『聴風館のある釈迦谷山(注)に「山之道場」を造成して稽古するのがよい』といわれたので、小野館長は長い年月を掛けて、山を切り拓いて「山之道場」を造られた経緯があります。 (注)釈迦谷山は、昭和初期頃までは「元愛宕(山)」と云われていたそうで、竹内久盛が元服するまでの間、京都今出川に居住していた折に、家伝の剣法の稽古を行うため、代々信仰していた愛宕神の山に、人知れず日参していたと考えられるそうです。今出川から元愛宕まで鴨川沿いに上ったとして徒歩約1時間強といったところでしょうか。
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