破手・捕手

竹内流の拳法躰術

竹内流備中伝における無手の体術は「拳法躰術」といわれます。この拳法躰術には当身技、投技、関節技、絞技のほか基本技となる手解(てほどき)、受身なども含まれます。

竹内流の道歌に「当てを一 つぎに投げると心得よ 強く懸かりて 容赦はしすな」とありますが、この歌は竹内流の体術の要点を的確に表現した「心要歌」です。この歌のとおり、①当身、②投技、③極技(関節技、絞技、寝技、留技など)という一連の流れが一つの型の中に凝縮されている場合が多くあります。

これらの体術は、立技、座合技、寝技などを総合的に含む古伝の形を反復稽古することによって会得することになります。また、この古伝の型には、相手が素手の場合から得物(武器)を持った場合、相手が複数人の場合など様々なケースを想定したものが含まれます。

破手・捕手

竹内流の拳法体術は、大きく「捕手(とりで)」と「破手(羽手)(はで)」に二分されます。「捕手」と「破手」の違いは、型における「手順」の違いではなく下記に示すとおり、「相手と自分の心構えと状況設定」の相違ということになります。やや大づかみにいうと、捕手は自ら相手を取り押えようとする先制技、破手は相手の攻撃を防ぐ後攻技ということになります。

捕手は、相手が攻撃する前に、自分から近付いて「相手を取り押える技術」です。流祖久盛が愛宕神より伝授された五ケ条の捕手の術をもとにして、工夫、発展させた形で あり、小柄で非力な人でも、自分よりも体躯の優れた、強力な人を取押えるということを可能にしうる技術体系ということになります。

捕手の技は相手も自分も試合をするつもりで対峙しているという状況で使うものではありません。竹内流が成立した頃の時代背景を考えると、相手(これは、敵である場合も、上司や親族である場合もありえた)を「搦めて討たず」(殺さずに捕らえる)ということを実現するために、必要不可欠となる技術体系であったと思われます。こうした技術体系は、警護関係の職務に携わる人には「逮捕術」や「捕獲術」として有効であることはもちろんのこと、一般の女性や老人であっても身の危険にあった場合に、いたずらに抗するのではなく、相手の油断、スキを見つけて、そこから離れたり、場合によっては形勢を逆転させる「護身術」として現代社会でも通用するものと思われます。

「捕手」の体系(宗家、藤一郎家伝の一部)(参照:日本柔術の源流 竹内流)

●捕手五ヶ条   立合之事、居合之事、込添之事、風呂詰之事、極意向上之事 ●捕手捕縄四十八ヶ条(略)  上記の捕手五ヶ条とは、竹内久盛が山伏から神伝された「粋家捕手」(すいかのとりで)です。この型は、流儀創建依頼470年間伝承されてきた型であり、稽古の許された高段者が稽古を行います。  備中伝では、このほかに躰術としての捕手の体系があり、捕手前十ヶ条、捕手中十ヶ条、捕手奥十ヶ条と段階を経て稽古を行います。 破手(羽手)とは  相手の攻撃を当身、投げ技、関節技にて制する後攻技で、一般にやわら(和術)と云われる体系に該当します。あくまで攻め手を絡めとって防御する術であり、和の術と云う意味もここにあります。やむを得ず用いる技であり、決して自ら先に攻撃を仕掛けるものではありません。  破手(羽手)の中には、「男女体術」と呼ばれる「護身術」も含まれていますが、竹内家の女性は必ずこれを学ばなければならなかったそうです。  「羽手」の体系(宗家、藤一郎家伝の一部)は次のとおり(参照:日本の古武道)。 ●前羽手胸倉取七ヶ条   小手砕片手取之事、小手砕両手取之事、大力落之事、切落之事、見合之事、引掛之事、尺澤之事 ●座詰胸倉取三ヶ条 巻留之事、組留之事、小手返之事 ●先髪取三ヶ条   巻落之事、突留之事、羽返之事 ●杖捕三ヶ条   面しばき、小手しばき、提杖之事 ●拳張九ヶ条   引違之事、扶錐留之事、車留之事、見込之事、水車之事、負投之事、拳砕之事、手刀之事、乱突之事 ●拳張座詰三ヶ条   蓮華突之事、取違之事、巻返之事、引合棒之事 ●中羽手五ヶ条   虎乱之事、通違之事、伏返之事、紅葉狩之事、小膝廻之事 ●奥羽手十一ヶ条   餌落之事、難波落之事、岩石落之事、車戸之事、片手投之事、千鶴之事、鉢投之事、小手責之事、滝落之事、虎乱之事、霞投之事 ●極意羽手工夫伝授七ヶ条 ●拳法十二ヶ条 ●男女体術十七ヶ条(女子護身術) ●仕合入身秘術七ヶ条 ●仕合抜刀(居合)十四ヶ条 ●仕合小具足極意六ヶ条 ●鍋蓋之術五ヶ条

通破手八ヶ条(上記、前羽手に類する型) 片臂落 拳砕 大力 大力返 切落 双手返 腕返 当投

座合十二ヶ条 引落 笛止 捩上 万力落 腕絞 引違 足車 突懸 押倒 負落 双打手 蹴懸

組討十二ヶ条 足猿 手猿 花立 小手取 閂取 捩上 引外 突襟 違襟 裏襟 腕縛 金縛

小乱十二ヶ条 附三ヶ条 小手返 片臂返 立手猿 蹴落 脇返 握上 裏蹴上 鬼落 水車 虎乱 踵返 俵返 車返 倒投

柔術のl起源

『日本武道全集 第五巻』には、以下の記述がある。「今日一般には柔術は他の武芸と同様、室町末期から安土・桃山時代にかけて成立したものと考えられている。最も古い柔術は竹内中務大夫久盛の創始した竹内流である。

現在竹内藤一郎氏所蔵『系書古語伝記』によれば「時に天文元年ン壬辰六月、愛宕神を信じて日に三たび浴して斎し、西垪和三の宮に参籠し、深く神を拝し、鍛錬を抄(ぬき)んで二尺四寸の木刀を以て大樹を打って飛跳し、此の如くすること六日六夜云々」とある故、「国正寺云々(※注 陳元贇(1587-1671)による江戸麻布国正寺での拳法伝授開始)」の正保よりも百年以上も前のことである。

しかし、右の記述でも理解されるように、当時はまだ柔術という成語は見なかったし、剣術と、いわゆる柔術を截然と区別できなかった。柔術に限らず当時の武芸者は、剣・槍・弓・馬・柔術等を総合的に修行していたのであり、新陰流の「無刀」の術なども、柔術と考えてよい。

前記竹内家の『伝記』久盛の頃にも「凡そ敵にむかい、速に疾(つと)めて殺傷降伏を成さしむ、是を兵法と謂う。今一術を示さんと即ち彼木刀を取て、長きに益無しと之を二つに切る。小刀となし、これを携えて曰く、之を帯せば小具足也。今小刀を小具足と云事蓋し是に因る」とあるのをみても、小具足は小刀の術で、無(徒)手の柔術にはいる前の段階、剣術と柔術の中間的な武技といえる。

なお「葛?(かずら)をとり武者搦(がらめ)を教え、其の長さ七尺五寸、是を迅縄(はやなわ)と号す」とあり、、「小具足組討以て腰の廻りと号す」と記されている。要するに竹内流は戦場組討ちの術であるから、組み敷いて小刀で刺し、またはこれを捕縛する技であった。

『本朝武芸小伝』(※注 柔術の起源を明の帰化人陳元贇と記述する江戸時代の文献)では、一応これを柔術(拳)と区別し、小具足捕縛として、「小具足捕縛ハ、真伝来久也。専ラ小具足ヲ以テ世ニ鳴ルハ竹内也。今是ヲ腰ノ廻リト謂フ。」と述べている。

柔術とは

『武士道(新渡戸稲造著)』の中で「柔術」が適切に定義されています。「柔術はこれを簡単に定義すれば、攻撃および防御の目的に、解剖的知識を応用したものと言えよう。それは筋肉の力に依存しない点において角力と異なる。また他の攻撃の法と異なり、何ら武器を使用しない。その特徴は敵の身体の或る箇所を?みもしくは打ちて麻痺せしめ、抵抗する能わざらしむるにある。その目的は殺すことでなく、一時活動する能わざらしむるにある」(新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳『武士道』、岩波文庫)。

ちなみに、新渡戸稲造の父十次郎は観世流(諸賞流和術)の師範であり、祖父の代には傍流の新渡戸田忠之丞が観世流免許を受けており、新渡戸家は諸賞流和術と縁の深い家系です。

この定義を「柔術」とすると、竹内流の拳法体術は、柔術を包含するものといえます。

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